虫マップ 手塚治虫ゆかりの地を訪ねて

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【インタビュー】『紙の砦』担当編集者黒川拓二さん

8月28日、手塚治虫ファンクラブのイベントとして「虫プロ見学会&手塚番トークショー&懇親会」が開催されました。
1970年~1976年まで、エチゴヤビルの二階を手塚プロが事務所として借りていて、まさにその場所で、手塚番3人によるトークイベントが開催されました。
イベントの詳しい様子はこちら▼
虫プロ見学会&手塚番トークショー&懇親会

14エチゴヤ手塚番鼎談
左から元・少年画報社の橋本一郎さん(『アポロの歌』担当)、黒川拓二さん(『紙の砦』担当)、、元・秋田書店の岡本三司さん(『ブラック・ジャック』担当)

私が興味をもったのは、やはり手塚治虫の自伝的漫画『紙の砦』にまつわるお話で、当時の担当編集者の黒川拓二さんから、当日伺ったお話にプラスアルファで少し電話取材を重ねました。
嬉しかったのは、私の熱意に打たれた黒川さんがFAX3枚で、『紙の砦』担当当時の日記の写しを送って下さったことです。
当時の熱い思いが伝わります!

黒川拓二さんよりFAX1_20170115 - コピー 黒川拓二さんよりFAX2_20170115 - コピー 黒川拓二さんよりFAX3_20170115 - コピー

手塚番の熱い夏の日々
                                         黒川拓二

 私は1966年、少年画報社に入社し、『週刊少年キング』の漫画班に配属になりました。
初めて手塚先生の担当になったのは『ノーマン』(1968)で、続いて『鬼丸大将』(1969)も担当しました。この連載中の二年間は、とてもクレイジーだったけれど、僕の人生の中でもっとも鍛えられました。
 その後、しばらく離れましたが、1974年の夏の特別読み切り企画で、また手塚先生の担当になりました。『紙の砦』は手塚先生の漫画家生活30周年の記念と8月の終戦記念日に合わせて「これでいきたい」と先生のほうから提案がありました。先生から「タイトル『紙の砦』はどう?」と言われ、「うわー、決まった!」と会社に飛んで帰りました。この頃、他に連載していたのは『週刊少年チャンピオン』で『ブラック・ジャック』、『週刊少年マガジン』で『三つ目がとおる』と競合揃い。『紙の砦』は前半16ページが2色オフセット印刷、後半24ページは活版。だから二週間程度、いつもより締め切りが早くて、原稿を取るのが本当に大変で毎日が修羅場の連続でした。それでも、手塚先生の気持ちがのっていて、いい原稿を描いてくれるのが解っていたから、体力的に大変でも、二週間毎日手塚プロに通うのは楽しかったですね。あの夏の日々を思い出すと今でも心が熱くなります。
半年後、正月の読み切り企画で、『紙の砦』の続編として描かれた『すきっ腹のブルース』も担当しました。この二作は本当に担当のし甲斐がありました。



【『紙の砦』担当当時の日記より】
8月6日(火) 午前中手塚プロへ。手塚先生と打ち合わせ。いよいよ『紙の砦』に取りかかる時がきた。気力、体力、知力を注いで担当する日々が始まる。
8月7日(水) 朝、手塚プロへ直行。まだうちの仕事に取りかかれない状態だ。少々イライラ。夜2時まで密着。明日から勝負になりそうだ。
8月8日(木) 朝、手塚プロへ直行。『ビッグコミック』、『少年マガジン』と重なり本当に厳しいスケジュールだ。夕方、マネージャーの松谷氏と一杯やりながら打ち合わせ。再び手塚プロに戻り手塚先生へアタック。今夜は徹夜だ。
8月9日(金) 2色カラー16ページ分のネームができる。いったん会社へ。ネーム入稿。夕方、家で着替えて再び手塚プロへ。
8月10日(土) 『少年マガジン』が完成。あとは『ビッグコミック』と並行だ。かなりピンチになってきた。
8月11日(日) 『ビッグコミック』の原稿が真夜中の午前0時に完成。うちのは2色カラーだけに時間が読めない。今夜も徹夜だ。
8月12日(月) 明け方の2時間程度仮眠。午前8時に2色カラー16ページの原稿完成!
8月13日(火) 今日は休日だ。活版の24ページは15日から取り掛かる予定になっている。
8月15日(木) 他の担当作品の入稿をすませ手塚プロへ。『少年チャンピオン』の『ブラック・ジャック』が進行中でうちのは明日からになりそうだ。夜7時まで密着。
8月16日(金) 朝、手塚プロへ直行。まだ『ブラック・ジャック』が完成していない。待機で一日が終わってしまった。
8月17日(土) 今日から『紙の砦』後半24ページが進行。午後1時半にネームができあがり、いったん社に戻り、ネーム入稿。夕方再び手塚プロへ。夜中タクシーで帰宅。明日が勝負になりそうだ。
8月18日(日) 朝出社し、写植ネームを受け取る。昼まで社内で仕事。午後写植を持って手塚プロへ。『漫画サンデー』とうちの原稿が並行して進んでいる。明日いっぱいうちの原稿を仕上げることに。夜11時まで密着して帰宅。
8月19日(月) 朝、手塚プロへ直行。原稿がドンドン集中している。調子が出てきた。しかし今夜も徹夜になりそうだ。
8月20日(火) 午前3時『紙の砦』の原稿完全に出来上がり!感動!一番電車が走り出すまで、ソファーに横になり少し仮眠…。アシスタントの人たちは帰り、手塚先生はまた一人で次の仕事を執筆中―。

<追記>
毎日が修羅場の連続で…激しい季節でした。
当時を思い出すたび、心が熱くなります。
あの夏の日々が懐かしい…。
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【インタビュー】伴俊男さん

【インタビュー】伴俊男さん

2014年7月21日
取材/田浦紀子

伴俊男さん

伴俊男(ばん・としお)
1953年、京都市生まれ。1974年、手塚プロダクションに手塚治虫のアシスタントとして参加。 雑誌漫画の制作現場のサブ・チーフを務める。『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ユニコ』『シュマリ』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』『火の鳥』(乱世編、異形編、太陽編)など、多数の手塚漫画の制作に関わった。手塚治虫没後は『アサヒグラフ』に伝記漫画『手塚治虫物語』を連載。1992年、朝日新聞社より刊行。

―『手塚治虫物語』に描かれた手塚治虫の少年時代について。

 林久男さんは手塚浩さんと昆虫のお仲間でしたね。

田浦 林久男さんは「昆虫の世界」と「動物の世界」を北野高校に寄贈され、今、六稜会館にあります。北野中学といえば、伴さんの『手塚治虫物語』で仁川の一里山健民修練所の描写が非常にリアルですが、どなたか北野中学の同級生の方に取材されましたか?

 『手塚治虫物語』は、手塚先生の自伝などの引用と、北野中学の同窓生の文集『北野中学の憶い出』を手がかりに電話取材などをしました。仁川の健民修練所についてはは最高裁事務総長だったか、すごく偉い人への取材もしましたね。

田浦 池田附属小学校の校舎の描写もリアルですが、このあたりも資料からですか?

 池田附属小学校は資料本を買いました。これもできたばかりの新校舎(城南校舎)の写真がありました。基本的には写真資料を元に描いています。『手塚治虫物語』は単行本にする時に大幅に追加取材したり書き加えたりしています。大阪に行って買ってきた資料で書き加えた覚えがあります。

田浦 手塚先生が通った池田附属小学校の建石校舎は、今は池田文庫に、城南校舎は市立池田病院になっています。

 池附は変わったんでしたっけ?

田浦 変わりました。事件があった関係で、建物もすべて建て替えになりました。アトム像がある場所も、一般の人が立ちれる場所ではないので、許可を得て入りました。これは手塚先生の池附での最後の講演会で描かれたイラストです。

 先生の講演では、模造紙に先生がばばっと描くんですよね。

田浦 池附の講演ビデオを持っています。1988年10月31日に、豊中第三中学で講演して、11月1日に池附で講演。その間、一度東京に戻っているんですよね。

 昔から先生はフットワークが軽かったですね。あんなに忙しい人なのにね。

―伴俊男さんご自身のことについて。

田浦 伴さんは、手塚プロダクション入社は何年ですか?

 手塚プロには二度勤めています。最初は1974年から二年間と、もう一度は1979年から先生が亡くなられた後までです。最初の二年間は正規のアシスタント、次は契約社員でした。僕はあしかけ12年ほどもアシスタントとしてお世話になったわけですが、これは先生のアシスタントとして異常に長いです。長いからといって先生に気に入られていたとかそんなことは全然なくて、長くアシスタントをするのは駄目なんです。あくまで漫画家として独立するために勉強するというのが先生のアシスタントのスタンスですから。そこを長く置いてもらった事をとても感謝しています。

田浦 1974年というと『紙の砦』や『ブラック・ジャック』「アリの足」が描かれた年ですね。

  『ブラック・ジャック』「アリの足」って障碍を持つ少年が歩き通す話ですね。それはお手伝いの現場にいました。『紙の砦』はお手伝いしていないですね。まだ手塚プロに入っていなかったと思います。

―『紙の砦』のエピソード。終戦の日を迎えた旧阪急梅田駅コンコースについて。

 ここはコンコースなんですか。阪急のシャンデリアなんですよね?『手塚治虫物語』は、阪急百貨店デパートのシャンデリアの写真を探して描いています。

田浦 伴さんのこの絵の描写は、それ自体は正しいんです。ところがこれも手塚先生一流のフィクションなんです。終戦当時シャンデリアはなかったはずなんです。当時、金属回収例でシャンデリアは回収されていたんです。このあたりを追及するのは研究者としての醍醐味ですね。手塚先生は終戦の日の話は同じエピソードを3~4回描いてはいるんですが、実際に阪急百貨店のことを書いた初出誌は『COM』1968年1月号収録「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」です。この絵のシャンデリアは、手塚先生が記憶のみで描いているので実物と似ているようで似ていません。

 たぶん、手塚先生のイメージの中ではまぶしく輝いていたでしょうね。

田浦 『紙の砦』と『ブラック・ジャック』「アリの足」のラストも梅田阪急百貨店の南端。ここに著名な建築家・村野藤吾が設計した梅田吸気塔があります。二つは実は同じ場所なんですね。この背景画もアシスタントの方が描かれたのでしょうか?

 僕もその時、制作現場にいたので推測はできるんですが、今はちょっと解らないです。当時の漫画部の資料があるんです。漫画部の参考資料は恐らく手塚先生が集められた本が多くて、初期の昭和30年代の作品からの参考に使われた写真集などたくさんありました。あれがまだ残っていれば探すことは可能です。でも、もう無いんじゃないかな。作り付けの本棚にありました。「日本地誌」ってわかりますか?日本各地の各県を記者がまわって、面積、人口、伝統、行事など写を紹介した本。これを手塚プロの資料としてよく使いました。でもそれは昭和30年代発行だから、梅田吸気塔はもっと新しいものですね。なので、その後に買い足したものです。漫画部の資料として大阪を紹介した大判の本もありました。ここにどういう絵を描いてというのは、すべて先生が指示します。

田浦
 本はどれだけ昔のものであっても、出版社、発行年、書籍名さえわかれば調べられます。

 そこまで覚えていないですね。漫画部の資料を見れば「あ、これだ」って解りますが。

―『アドルフに告ぐ』ついて。

田浦 手塚先生の後年の代表作といえば『アドルフに告ぐ』です。主人公の二人のアドルフの年齢は、実は手塚先生と同じ年齢設定になっています。主な舞台はドイツと神戸ですが、宝塚や大阪など手塚先生ご自身にとって思い出深い場所も描かれていますね。実在の地域や建物などが作品の舞台となっていますが、手塚先生ご自身が、当時、取材旅行に行かれたのでしょうか?

 手塚先生が特に関西に取材に行かれたという事は僕は知らないです。ただ。アドルフの時、先生が背景の指定をしながら珍しく「僕の子供の頃の街なんだ」という意味のことをポツリとおっしゃっていました。何か思い出されていたのでしょうか。

田浦 神戸三宮のそごうなどは描写が非常にリアルですね。現在のそごうの建物は、壁を上から張っているんですね。外装は変わっていますがが、建物は昔のままで、阪神三宮駅の改札に降りる階段などは、『アドルフに告ぐ』に描かれた装飾がそのままあったりします。神戸水害についても、報道写真があり、それとそっくりですね。大丸やすずらんの街灯のある元町商店街の描写などもモデルがあります。クラブ・コンコルディアは、現在その地にクラブコンコルディアの碑があります。

 よく同じ形の写真が出てきますね。『アドルフに告ぐ』は、神戸に実際に行ってロケしたわけじゃないと思います。先生はそんな時間はなかったのじゃないかな。文藝春秋の編集者からの資料の差し入れもあったと思います。資料がなくて大変だったのは、本からの切り抜きが小さくて困ったのが、ポーランドのユダヤ人神学校でした。パン屋のアドルフ・カミルに母親がヨーロッパの状況を話しているところですね。他にも最後のほうで出てくるユダヤ人協会は、資料が無いので、全然関係ない写真を協会にしちゃったと手塚先生も「あとがきにかえて」でおっしゃっていましたね。

田浦 『アドルフに告ぐ』は建物が非常にリアルですね。1920~30年代当時の写真は、ネガ代が高いので、報道写真や絵葉書など、初出が限られてくるんですね。ということは、先生が1冊にまとめた本をごっそり買ってそれを参考にしているはずです。有馬温泉などはパンフレットからですね。芸者絹子のルーツを探るために、アドルフ・カミルと小城先生が訪問する有馬温泉のシーンは、実際は宝塚温泉の写真がモデルになっています。他にも峠草平が自転車で橋を疾走するシーンですが、神戸のシーンなんですが、実際は大阪・心斎橋にある戎橋なんですよね。

 そういうのはよくやりますよ。

田浦 アドルフ・カミルと小城先生の石段のシーンなどは、実在の有馬温泉の石段そのまま。面白いのは、樹木が30年分成長していることです。カウフマン邸は、風見鶏の館、萌黄の館、シュウエケ邸ですね。どなたか神戸の街を撮影したということはありません?

 アシスタントは誰も行っていません。文藝春秋の編集の方か資料ですね。

田浦 カウフマン邸は、伴さんも描かれていますか?

 カウフマン邸の家の中もたくさん描きました。でも、具体的にどれを描いたかはよく覚えていないです。全部写真を見て描いているわけではありません。ゲラ(前の印刷物)を見て描くんです。ひとつ詳しいモデルがあれば、それをもとにしてスタッフは手分けして描きます。

田浦 カウフマン邸が最初に出てくるのは、子供のアドルフと本多芳男が本多大佐に連れられて出てくるシーンですね。

 『アドルフに告ぐ』の連載が始まる一番最初に文藝春秋の方と一緒にドイツのベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」を、アシスタント全員で見に行きました。どこでも上映していないんですが、特別な場所で上映していただいたんです。あの映画を見たからといって背景を全部描けるわけじゃないんですが、気分高揚のために皆で見に行きました。

僕の母親は手塚先生の一つ上で、僕が小さい頃はたまに戦争の話をしました。食べるものが無くてその辺の野草まで食べたこと、親戚兄弟が多かったけど戦争でほとんど亡くなったこと。父親は大正生まれでしたが、ビルマに兵隊に行きました。奇跡のように無事に帰ってきたのですが、戦争のことは全然話しませんでした。話すのも思い出すのも嫌だったのでしょう。『アドルフに告ぐ』を読むといつも両親の戦争体験とダブらせてしまいます。手塚先生のお父様も出征されていたそうですが、当時こんな体験をした日本人はたくさんおられたでしょう。『アドルフに告ぐ』で手塚先生は、戦争の悲惨さと正義の名のもとに戦争に走った人間の本当の恐ろしさを描きたかったのだと思います。

―「どついたれ」について。

田浦 『どついたれ』もやりました?

 『どついたれ』もやりました。『週刊ヤングジャンプ』の創刊号から載ったのかな。『1億人の昭和史』(「毎日グラフ」別冊)に大阪空襲などの特集号があり、『アドルフに告ぐ』や『すきっ腹のブルース』などでも参考にしました。爆発や炎上する様子は何度も描かされたのでよく覚えています。写真がいっぱい掲載されているグラフ誌を参考にしました。大阪空襲だけでなく、神戸空襲や東京大空襲などの写真も掲載されています。写真がないとアシスタントは描けないですからね。

田浦 『どついたれ』は曾根崎警察署が出てきたり、堂島川に原稿を投げ入れるシーンがあったり、大阪の街の描写がたくさん出てくるんですよね。

 大阪城…こんな焼野原に見えたんですね。

田浦 『どついたれ』は、連載の最初からかかわっていました?

 関わっていましたね。

田浦 ということは、伴さんが手塚プロに戻られたのが1979年ですね。具体的にどのシーンを描かれたとかは?

 『どついたれ』なんて見るの何年ぶりだろう。10年ぶりくらいじゃないかなあ。『どついたれ』は全集に入らなかったですからね。先生が嫌いました。

田浦 でも、あとから全集に入りましたよね。第4期で。

 大阪が空襲で炎上するこのあたりのシーンは僕が描いていたように記憶しています。

田浦 話としては、戦前のほうが、聖地巡礼的な意味合いでは重要度が高いのですが、ただ、手塚作品としてはあまりメジャーではないんですよね。全編を通して大阪弁の台詞の手塚漫画はこの作品しかありませんからね。ただ、東京人が描く大阪弁というのは微妙に鼻につくんです。

 中野晴行さんもそう言いますね。中野さんは東京生まれなんですが大阪育ちです。大阪の文化を大切に考えるので大阪弁にもこだわりますね。

田浦 惜しいけれど、取材はこれで切り上げなければいけないですね。今日はありがとうございました。
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手塚治虫と昆虫(3)質疑応答

手塚治虫と昆虫■手塚浩×林久男4

質疑応答

司会 第二部は、トークセッションとしまして、先ほどご登壇いただきました、林久男先生、手塚浩先生に加えまして、木村勝と田浦紀子が進行を務めます。両先生から貴重なお話を頂戴したわけですが、ご講演に関連しまして、先ほどお配りした質問カードを紹介しながら、両先生にお答えいただく形を取りたいと思います。非常にたくさんご質問を頂戴いたしましてありがとうございます。すべてご紹介していると、それこそ午前様になってしまいますので、大変申し訳ないんですが、講演内容に関連のある内容をこちらでセレクトさせて頂きました。

司会 手塚先生が豊中でお生まれになったということで、ご質問を頂戴しています。豊中在住時代、昆虫に関する活動や漫画に関する関心はどうだったのか、豊中での生活が手塚治虫に与えた影響はどうだったのか、とのことです。ただ、皆さんご存知のように、手塚治虫さんが豊中で過ごしたのは4、5歳頃までということで、昆虫との関わりというのは難しいかと思います。
 先ほどのお話で、箕面、能勢のほうで採集されたとのことですが、例えば豊中、岡町、曽根、服部近辺で採集された想い出などはございますでしょうか?林 申し訳ないんですが、豊中、岡町近辺で昆虫採集した記憶はございません。ただ…服部までが豊中市ですか?…だとしたら中学二年生の博物班で、指導の先生がミジンコに興味を持っていて、服部にミジンコの採集に行った
ことがございます。

司会 豊中での生活は漫画に影響を与えましたか?手塚浩さん、いかがでしょうか?

 いくつかの想い出はありますが、これは田浦紀子さんの力作である『新・虫マップ』でエピソードを紹介されていますので、そちらをご覧いただければと思います。印象的だったのは、この近くの萩の寺の木魚のポクポク音が治虫の気持ちに怪談じみて聞こえ、後の漫画に生かされていたのではないかと思います。

萩の寺

田浦 手塚先生は豊中で生まれ、その後、2歳頃から4、5歳頃まで南桜塚で過ごされたとのことです。そちらが萩の寺の近くだったということです。南桜塚に引っ越されて、浩さんが生まれて、こちらで美奈子さんも生まれたということでよいのでしょうか?

 最近、治虫の息子の手塚眞くんが出版した本『天才の息子』に昔の手塚家の写真が載っているのですが、なぜか私だけままこになっていまして(笑)、家族四人写った写真ですが、赤ちゃんの写真の説明が美奈子となっているんですね。あれが本当に美奈子であるならば、私はどうなったんだろうと…(笑)。美奈子がいるのに私がいないということは考えられないです。ちなみ
にあの写真に写っている部屋は宝塚の家ではありません。となると、時期的に南桜塚の家になると思うんですね。ところが写真の説明は私でなく美奈子になっているので、ミステリアスでわかりません。

司会 ありがとうございます。手塚治虫先生が昆虫から離れた理由について、ご質問を頂戴しました。先ほど、手塚浩さんは「昆虫に関してお兄様の声が聞こえる」とおっしゃいました。その中で「厳しい現実に向き合って」という表現がありましたが、「厳しい現実」というのがどのへんを指すのか教えていただければ、とのことです。また、昆虫から離れた理由に、戦争の影響があり、虫を殺すのが嫌になったのではないかと推測するのですが、いかがでしょうか?とのことです。このあたり、いかがでございましょうか?

 手塚作品のテーマとして「人間愛」が描かれている。これと関連付けて、虫を殺すのに嫌気をさして辞めたのでは、というご質問があるのは当然だと思いますが、殺すという言葉を実際使いたくないんです。昆虫や動物を採集して標本にすることとは基本的に考え方が違いますので、それを直接、人間愛や生かすとか殺すということに結び付けるのはちょっとナンセンスじゃないかと思います。ご質問のような部分があったことはあったかもしれません。しかし、私はそう見ていないんです。戦争というのは影響しているとは思います。しかし、先ほどの話に出てきた、豊中市で保管されている昆虫標本の中に手塚治虫採集のものが今中宏さんと交換した中に混じっていたということですね。この中に1944年のものがある、これは戦争が終わる一年前です。1944年から1945年、戦争が終わった年にもやはり、治虫が採集を続けていたという事実を私は知っておりますので、戦争が直接影響したわけではないと思います。

 私もそう思います。もし、戦争の影響であるとするならば、『紙の砦』に出てくる、工場が焼けて大勢の人が死んだというような事実は終戦前のことですが、それがきっかけであれば、その翌日からぴたっとやめていたと思います。昭和20年9月にも私と箕面に昆虫採集に行っておりますので、戦争が直接のきっかけではないと思います。

 もう少し具体的にお話ししましょうか。隣に、林さんもいらっしゃるわけですが、実際に虫とのお付き合いは林さんのほうが時間的に長かったのが事実です。しかし、私は実の弟ということで、治虫と過ごした時間は当然長いわけです。その頃の治虫の言動から推測しまして、治虫は、こと昆虫に関して現実と空想との狭間で迷っていたと思います。すべてのストーリーは、起承転結で始まり終わるわけです。漫画のストーリーも起承転結。結でもって限りなく広がる可能性を有しているわけです。ところが、昆虫の起承転結は、例えば蝶の場合、卵からはじまり、幼虫になり蛹になり、結が蝶になるわけです。蝶の卵から例えばカブトムシの卵になって、ゲンゴロウの蛹になり、蛾の成虫が飛び出すということは、絶対にありえないわけです。昆虫の起承転結は、古今東西、一定の法則でもってコントロールされています。ストーリーにおける起承転結は限りなく発展する可能性を秘めているが、昆虫の起承転結は、あくまで卵から始まり、当然そうなるべき成虫の姿で終わってしまう。手塚治虫にしてみたら、昆虫の生涯は自分で脚色しない限り、それ以上発展しないということに限界を感じたのではないかと思います。要するに自分の趣味としての昆虫に限界を感じた、それ以上に発展させることは昆虫に対する冒涜である、兄貴はそこまで考えたのではないかと思います。

司会 美奈子さんの顔にライトを当てた実験の結果はどうなったのでしょう?差し支えなければ当時のエピソードも交えて教えていただけませんか、とのことです。

手塚治虫と昆虫■手塚浩×林久男6

 差し支えは全然ないのですが、現物を今、手塚プロダクションに貸し出し中でございまして、というのも「アトム誕生の年」ということで、手塚プロでもイベントを開催しておりまして、現物が手元になく確認できません。また戻ってまいりましたらご報告できたらと思います。

司会 木村さん、いかがでしょうか?

木村 今回の講演会「手塚治虫と昆虫」と偶然タイミングがあったのですが、手塚先生の同級生の今中宏様が寄贈された標本の中に「テヅカオサムシ」や「TEZUKA OSAMUSI.C」と書かれた標本が14点発見されました。手塚治虫さんが採集された昆虫の標本です。8月29日、30日に蛍池駅前の豊中市教育センターで一般公開されますので、お立ち寄りいただければと思います。写真が手に入りましたので、皆さんにご紹介したいと思います。

豊中市教育センター所蔵昆虫標本1 - 縮小 豊中市教育センター所蔵昆虫標本2 - 縮小 豊中市教育センター所蔵昆虫標本3 - 縮小

田浦 豊中市所有の昆虫標本については、インターネットのニュースでも紹介されました。補足しますと、この虫はオサムシではありません。「テヅカオサムシ」と採集者の名前がそうなっているので、勘違いされる方がいるのですが、これは甲虫類ですね。

 動物同好会を一緒に作った今中宏君の家は伊丹にあり、しょっちゅう行っていたのですが、立派な白い髭の彼のお祖父さんがいて、それがヒゲオヤジのモデルだと言われています。

司会 昆虫に関する、やや専門的なご質問をいただいております。手塚先生は少年時代、人気のあったカブトムシやクワガタムシなどにはそれほど興味はなかったのでしょうか?

 私の知る限り、手塚君はカブトムシや、ここ数年人気が出てきたオオクワガタなど、派手な虫には関心を持ってはいませんでした。やはり一番興味を持っていたのはオサムシ、特にマイマイカブリですね。

司会 ここ最近、オオクワガタの人気が出てきたということは、当時はそんなに貴重な存在でなかったというか、そこまでの価値はなかったのでしょうか?

 宝塚は当時、田舎で、カブトムシやクワガタが、クヌギから出てくる樹液にむらがるわけですが、オオクワガタはそれほど珍しくなかったですし、その気になれば楽にどこでも採れたということで、特に珍重して集める傾向はなかったように思います。
 先ほどの話に関連して、今、思い出しました。治虫の漫画で、これは印刷物になったのではなく、手すさびに描いた漫画にあったんじゃないかと思います。蚕と蝶が人間のいたずらで、同じ箱の中に生きたまま詰め合わせされ、蚕と蝶が交尾して、生まれた卵からどんな幼虫がかえったのか。これは結論が出ていないんです、蛹になって成虫になったらどんな姿になるのか、極めてミステリアスな簡単なストーリーですけども、そういった漫画を兄貴が描いていたのを思い出しました。先ほど言った、昆虫に限界を感じたというのは、その頃から、昆虫の起承転結がおざなりの起承転結に終わること自体に、自分の興味の限界を感じていたという現れだと思います。この漫画をもし、どなたかが持っていたら大変貴重な資料だと思います。

 これは手塚君が手書きで作った図鑑なんですね。全7巻で昆虫を全部網羅しようと作ったのですが、結局2冊できた段階で中断してしまいました。手塚君はクワガタを採集はしなかったけれども、図鑑という形で絵としては描いております。

司会 これを手で描いたということです。写真ではありません。

 せっかくですので、もう一枚甲虫の絵をご紹介しましょう。これはハムシの仲間なんですが、これも手書きなんですね。中には一ミリくらいしかない虫もいるのですが、二本の髭と六本の足まで細かく描いてあります。このくらい細かく観察をし、描き上げる力を持っていたということです。

田浦 これら『甲蟲図譜』は手塚治虫記念館の常設展に展示されています。手塚先生のエピソードで、もしかして逸話かもしれませんが、テレビでたまに取り上げられるエピソードで、赤色の絵の具が無かったので、自分の指を切って血で描いた逸話があったりするのですが。

 そういう伝説もあります。当時は物資が不足していたのですが、その中でもこれだけの業績をあげたというエピソードだとご理解ください。
 二人して『動物の世界』2冊と『昆蟲の世界』を11号まで作りましたし、手塚君単独では手書きの図鑑『甲蟲図譜』2冊と、『昆蟲つれづれ草』と『春の蝶類』という随筆集を中学時代に残しております。
 昭和20年、空襲が激しくなってまいりまして、動員先も空襲でやられましたし、「次は宝塚でないか、いや、吹田だ」という噂が飛び交ったわけです。もし二人の家が空襲で焼けてしまったら、世界に一冊しかない著作物がなくなってしまう、ということで、二人して半分ずつ持てば、仮に空襲で焼けても半分は残るということで二人で半分ずつ保管したわけです。幸いにして宝塚も吹田も空襲で焼けませんでしたが、手塚君が保管していた分は、その後、手塚君が東京へ引っ越し、転々としたので無くなってしまい、私が持っていた半分だけが手元に残ったということでございます。
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手塚治虫と昆虫(2)林久男さん講演

司会 ありがとうございました。それでは引き続きまして、北野中学時代の無二の親友、林久男先生からご講演を頂戴します。

手塚治虫と昆虫■林久男21

 皆さんこんにちは。ただいま、北野中学校時代の無二の親友とご紹介いただきましたが、無二の親友という言葉は、決して自分から言い出したわけでなく、池田附属小学校と北野中学の10年間を手塚君と同じ学校で過ごした泉谷迪くんが出版した本『手塚治虫少年の実像』にそのように書かれております。私ども終戦の年、昭和20年で北野中学を四年生でもって卒業したわけですが、卒業後40年を記念し、『北野中学の憶い出』という文集を昭和60年に出版しました。

北野中学の憶い出表紙 - コピー

で、皆、投稿したわけですが、手塚君は仕事で忙しく、文集のために新しい原稿を書いている時間はないということで、昭和20年の自分の日記をそのまま投稿したんです。その日記の中に出てくるクラスメイトの名前の呼び方を、泉谷くんが分析しまして、大部分のクラスメイトは苗字の呼び捨て、もしくはあだ名で書いていたんですが、一人、小学・中学と10年間ずっと一緒で、中学四年間はずっと主席で通し、大学卒業後は外務省に入り、北米局長やカナダ大使やイギリス大使を歴任しました、北村汎君は「北村君」と「君」付け。そして、私だけ「林さん」と「さん」付けで書かれているということで、林さんは別格、特別扱いということから、それはきっと林さんが手塚君の無二の親友だったからじゃないか、ということで、「無二の親友」という表現をこの本の中でしているわけです。当然、私としても中学時代の無二の親友でありました手塚君のことを、大勢の方の前で発表させていただく機会をいただきまして、大変感謝しております。主催者の方々、お忙しい中わざわざ足を運んで下さった皆様、ありがとうございます。

 手塚君のことは、皆さま手塚ファンでしょうから、漫画のことはよくご存じでしょうし、4月に大森先生や妹の美奈子さんからいろいろお話があったようですが、その手塚君が才能を発揮した分野として昆虫分野がございます。ところが彼の昆虫に関する業績についてはあまり知られていないんですね。最近いくらか知られるようになりましたが、世の中にあまり知られていない。
しかも当時の昆虫との関わりを知っている方がだんだん少なくなりまして、泉谷君も亡くなりましたし、今や残されたのは私くらいということで、手塚君は漫画の分野だけでなく昆虫の分野でも異才を発揮したと伝えることは私の責務だと考えております。このような機会を与えて下さいましたことを大変光栄に思います。

 小学校時代のことは前回、大森さんや美奈子さんや浩くんなどからお話しされたと思いますので、私は、北野中学校時代におけることや、昆虫との関係にしぼってお話ししたいと思います。なお、彼の呼び名のことですが、手塚君は私のことを林さんと呼んでいましたし、私のほうは手塚君と呼んでおりましたので、中学時代の習慣に従いまして、本日は手塚君と呼ばせていただきたいと思います。

 では、私が手塚君とどうやって知り合ったのか。そもそもの馴れ初めは、中学一年で同じクラスになったからですね。手塚君は宝塚に住んでいて、私は吹田に住んでおりました。昭和16年4月に旧制大阪府立北野中学校に入学しました。そして、二人とも一年三組に配属になりました。当時の北野中学は一学年が300名でございまして、6つの組に分かれておりました。各組50人の中から組長が一人と副組長一人。いわゆる級長ですが、それが選ばれました。一年生の時は学校の指名で選ばれたのですが、二年生以降は全学年300名が成績順に選ばれ1番から6番までが組長、7番から12番までが副組長が選ばれました。残り48名が背の高い順に四つの班に分かれていたんですね。当時、手塚君も私も背が低かったものですから、二人とも一番背の低いクラスに編入されたわけです。これは一年三組の記念写真でして、昭和16年のことですから、写真そのものも良くないですが、二人とも前のほうにいるんですが、これが手塚君で、こちらが私です。二人とも紅顔の美少年だったんですね(笑)。一年の時に同じクラスになったのが縁です。しかし、入学当初はお互いの顔も知らないし、話をしたこともなかったわけです。ところが、二人が知り合うきっかけになったのはある出来事がきっかけでした。

 いわゆるクラブ活動をやっていると、各クラブが新入生を獲得するためにいろんな行事をやるわけです。北野ではクラブと言わずに班といっていたのですが、その行事のひとつとして、登山班が新入生獲得のためのイベントとして、生駒山の登山を企画したわけです。生駒山ですから、登山といえるほどのものじゃないのですが、ケーブルカーに乗らずに歩いて登ろうということで、生駒山登山を企画し、私も手塚君も参加することになりました。登山が催される前日に、参加者を集めて説明会があったんです。リーダーを務める五年生からいろいろ説明があり、最後に「誰か質問はありませんか」という話があった時、やおら手をあげたのが手塚君でした。「明日、昆虫網を持って行ってもいいですか?」と質問をしたわけです。意表をつかれた質問に、一同びっくりしたわけですが、顧問の先生とも相談された結果、「明日はそのくらいのゆとりはあるだろうから持ってきてもよろしい」と許可がおりたわけです。手塚君は大喜びで、昆虫網を持って近鉄の石切駅の駅前にやってきました。当時のことですから、まだ自然が残っており、いろんな虫が飛び回っているわけです。手塚君は、集合時間までの間、寸暇を惜しんで採集するわけです。私どもほかの連中は野次馬根性丸出しで、「あそこにあんな虫がいるぞ」と教えたり、虫を持って行ったりしました。私もガガンボという蚊のおばけのような虫を「これ珍しいゾ」と捕まえて持って行ったのですが、「これは足が折れるから標本にならない」と一蹴され、非常に悔しい思いをした記憶がございます。

 そういうことで、手塚君は昆虫採集をやっているという話がクラスに知れ渡りました。北野中学には校庭の一角に農園がありまして、一年生では農園実習という教科がありました。6つの組に等分し、さらに4つの班に分けまして、各班ごとにカボチャやサツマイモを作るわけです。そうしますと、カボチャの花や葉にハムシやテントウムシなどが集まってきますし、鍬や鋤で土を掘り返すとオサムシやシデムシなどいろんな虫が出てくるわけです。一番多かったのは、大阪では「へこきむし」と言っていた、捕まえるとお尻からプッと黄色い液体を噴出する、正式にはミイデラゴミムシと言いますが、それを手塚君は片っ端から捕まえて毒ビンに放り込んでいくわけです。当時は青酸カリが入手できましたので、ガラスの瓶の中に青酸カリを入れ、その毒ビンをポケットにしのびこまして、それに放りこんでいくわけです。その様子は、手塚君の、のちの漫画『ゼフィルス』に描かれています。このように虫を採っては標本にしていました。

 北野中学時代は、機会を捉えては一所懸命、昆虫採集に熱中していました。そのことは、クラスに知れ渡りましたし、クラスの連中も野次馬根性半分で口を出したりしますので、この連中は見込みがあると思ったのか、手塚君は教室で昆虫趣味の普及に努めたわけです。教室で、自分が採った標本を見せたり、当時の昆虫少年のバイブル、平山修次郎の『原色千種昆蟲図譜』ならびに『原色千種続昆蟲図譜』を持ってきたり、自分で蝶や甲虫の絵を描いたりしたりしました。その上手な口説きにのせられ、昆虫採集をやってみようかと思ったのがクラスメイトに何人かいまして、手塚君は見込みのありそうなクラスメイトを宝塚の家に連れていき、採集の仕方と標本の作り方を教えたわけです。

 最初に宝塚の家に行った上田吉孝くんの報告の第一声は「ともかく手塚の家はでっかいぞ。門から玄関まで電車が走っていた。」と、こういう報告をしたわけです(笑)。皆、その話にのせられ、「わあ、手塚の家はすごいな、宝塚はいいところだな」と、惚れ込んだわけです。それで、順番に手塚君から、昆虫採集の仕方と標本の作り方を教えてもらいました。そして、私は順番としては一番最後になりまして、夏休みの一番最初の日曜日に行きました。阪急百貨店の二階に昆虫売り場があり、そこで昆虫採集道具や昆虫標本なども売っていたんですね。手塚君の自宅に行く前日に、そこで、壁に使う生地で作ったゴワゴワの採集網、毒ビン、蝶々を入れる三角紙とそれを入れる三角缶が必要だと教えてもらい、それを買いこみまして、翌日、喜び勇んで宝塚に出かけました。

 当時の宝塚は、地名も宝塚でなく「兵庫県川辺郡小浜村川面字鍋野」と「字」がついているような、本当の田舎でございました。手塚君の家に行ってまずびっくりしたのは、大きなクスノキがあったことです。さすがに電車は走っていませんでしたが、玄関を入って、部屋にあげてもらい、まずびっくりしたのが、部屋の中に立派な標本箱がずらっと並んでいたことでした。私が前日に阪急百貨店で買いました標本箱は、ボール紙で作ったペコペコの箱でしたが、手塚君のは木製の立派な標本箱でした。そこに昆虫標本が並んでおりまして、その中でいろんな珍しい虫が並んでいたわけです。その中で特に目をひきましたのがオサムシの標本なんですね。で、特にその中でも、けったいな虫が標本箱の真ん中に鎮座していました。現物は後ろに並べていますが、先ほど浩くんの話にありました、マイマイカブリという虫で、手塚君本人の言によると「この虫が大好きだった」ということです。「首が細長くて目玉がギョロっとしていて、僕によく似ているやろ」と手塚君本人はそのように申しております。これが治虫というペンネームのいわれになっているわけですね。

 オサムシは、羽はあるんですが歩いてばかりなので、漢字で「歩行虫」と書きます。手塚君は自分の本名が「治」なものですから「蟲」をつけまして「治蟲」と書いていました。本来は、一字だけの「虫」という字は蛇という意味で、昆虫の虫は「蟲」と虫を三つ書きます。ペンネームは「オサムシ」と読みましたが、ところがクラスメイトの中にも読めないやつがいるんですね。ついこの間まで「じちゅう」と読む人もいました。手塚君は、違った読み方をされることを非常に嫌いました。「じちゅう」と呼ばれたり「はるむし」と言われたり、一番嫌ったのが「ジムシ」と言われることでした。なので、皆さん、間違いないように「オサムシ」と正しく読んでいただきたいと思います。

手塚治虫と昆虫■林久男10

 これが彼のペンネームの由来でございまして、そういった意味で、甲虫の中でもオサムシ、特にマイマイカブリが大好きだったということです。そのように、標本を拝見しまして、今度は連れだって裏山を案内してもらいました。これは、手塚君の『昆虫手帳』に記されている、手書きの宝塚の採集場所の地図なんですが、手塚治虫記念館でも展示していますし、先日、テレビでも放映されました。猫神社、蛇神社、瓢箪池、擂鉢池など、これらはもちろん正式名称でなく、彼が呼んでいた名前です。裏山の採集ルートが決まっており、ぐるぐるまわって採集するわけです。この裏山は御殿山といいますが、当時この裏山は人家がほとんどなく雑木林で、いろんな虫がいたので二人して必死になって採集したわけです。

千吉稲荷1 瓢箪池


 私は昆虫採集が初めてですからモンシロチョウくらいしか知らなかったのですが、採集に行くと見たことない蝶がありびっくりしたわけです。例えばルリタテハ。クヌギの樹液に集まる蝶なのですが、木の幹に羽を立ててとまっていていまして、普通蝶々と言うと、羽の形がスラットしているんですが、このとおりギザギザになっています。もとからこういう形をしているんです。羽の形が非常に変わっている。表はこのように綺麗な瑠璃色の帯が入っているんですが、裏は黒褐色で、羽を閉じてとまっているとクヌギの幹そっくりなんですね。いわゆる擬態、保護色、カムフラージュなどという現象で、変わっているなという印象を受けました。一方、甲虫では、カブトムシやクワガタはいませんでいたが、オオゾウムシなどがクヌギの樹液に集まっており、けったいな虫やな、という印象を受けた記憶があります。

手塚治虫と昆虫■林久男16

 さらに、「蝶道」というのがあると教えてもらいました。『ゼフィルス』という作品の一コマなのですが、これはアゲハチョウですが、同じ種類の蝶が一定方向に向かって次々に向かって飛んでいく現象がみられるんです。蝶が通る道ということで「蝶道」と言います。今ではフェロモンによるものだと解っているわけですが、当時から手塚君が「においを出してあとをたどっていく」と書いていました。当日は、クロアゲハという蝶がうす暗い林の中を、次から次へと飛んでいくのを見かけました。

 素人の私にとっては、昆虫の名前はもちろん、はじめて見たり聞いたりする現象や、樹液に集まる習性など、いろんなことを手塚君から教えてもらいました。我々素人の「なんていう虫や?」という質問にも、手塚君は親切丁寧に教えてくれました。それで、私は俄然興味を持つようになり、それから昆虫採集にのめりこんで、しょっちゅう手塚君と一緒に宝塚へ出掛けていきましたし、場合によっては今日は手塚君が留守だと知りながら宝塚まで出かけ、お母さんに頼んで手塚君の網を借りて一人で裏山をまわったこともございました。

 さらに、宝塚だけでなく箕面や能勢にもよく昆虫採集にまわりました。当時、関西の好採集地が箕面や能勢となっていました。箕面には当時、「春の女神」といわれているギフチョウもいましたし、今では国蝶に指定されているオオムラサキなどもたくさんいました。能勢には、当時能勢にしかいないと言われていたウラジロミドリシジミという蝶がいました。二人はそれに夢中になったわけです。この3匹がウラジロミドリシジミです。オスは緑に光っているのですが、メスは黒褐色です。裏が真っ白なのでウラジロミドリシジミという名前なんですが、この蝶は大阪周辺では能勢にしかいないということで、夢中になってこの蝶にむらがったわけです。この蝶に関しては、手塚君は弟の浩君ともライバル関係にありまして、「今日は日曜日だけれど浩は登校日でいないから」とか「ここは昨日、浩が採集した後だから何もいないよ」という話をよく聞きました。

手塚治虫と昆虫■林久男17

 という具合に、彼が夢中になっているエピソードは『ゼフィルス』という作品にそのまま出てきます。ゼフィルスというのは、ミドリシジミ類の名称で、もともとギリシャ神話に出てくる西風の精なんですね。この蝶は6月、初夏の頃、西風に吹かれまして、高いクヌギの梢を舞っていますので、ゼフィルスという名前がつけらたんですが、昆虫少年にとっては憧れの的なんですね。「ゼフィルス、ゼフィルス」と叫んでいるわけですね。高い梢のほうに居ますので、上を見上げ蝶々が飛んでくるのを待つわけです。ところが、ミノムシが落ちて来て口の中でゲホゲホやっていたりするわけですね(笑)。

 ゼフィルスの中でもウラジロミドリシジミが珍重され「100万円かけてもこいつはぜひ手に入れたい」という台詞が書いてあります。まぁ、100万円というのはちょっとオーバーですが、そのくらい珍重された蝶々でした。一緒に宝塚、箕面、能勢に蝶を採りに行った関係は、中学校を卒業したその年の夏までずっと続きました。

 しかし、そのうちただ昆虫を採集するだけでは面白くない。もう少し研究的なことをやりたい、となりました。普通だったら学校のクラブで生物部や昆虫部に入るのが普通なんですが、当時はまず、生物という教科がございませんでした。動物・植物・鉱物を合わせて「博物」という科目でした。その博物班すら北野中学にはなく、地歴班という地理と歴史を合わせた班に入部いたしました。しかし、行事といえば寺めぐりや神戸に化石を採りに行くなどで、我々にはつまらない。我々だけでやろうじゃないかと、同好会を作りました。

 我々ともう一人、昆虫よりも、他の魚などや動物にも興味を持っておりました今中宏くん、彼は鶴屋八幡の御曹司でなんですが、その今中君を引っ張り込みまして、三人で動物同好会を作りました。そして、『動物の世界』という雑誌を出すことにしたんです。『動物の世界』には、手塚君は「昆虫と戦争」という研究論文というか提案書を発表しました。通信に使う伝書鳩はご存じだと思いますが、伝書鳩じゃ目立つから蜂を使って伝書蜂はどうだろう、という記事を載せたりしました。三人で記事を書き、メンバーは三人ですが5部作ろうということで、今中君が実家の店、つまり鶴屋八幡の邦文タイプライターを使いまして、コピーして5部作ってくれたわけです。しかし表紙は印刷できないので、手塚君が手書きで表紙を5枚作り、装丁も自分でやりました。これがその表紙です。南米におりましたフクロウチョウという蝶を表紙にしたもので、全く同じ絵を手書きで5枚描き、表紙にして装丁も一人でやり、5冊作りました。その中で今は1冊だけが私の手元に残っております。

 そして活動を始めたわけですが、第一号はなんとか出しましたが、第二号となりますとそうそう贅沢を言っていられないということで、一冊だけ、それも手書きで作ることになりまして、原稿は持ち寄ったのですが、手塚君が表紙も描き、装丁も自分で行いまして、一冊だけ作ってメンバーに回覧する形式を取らざるをえなくなりました。手塚君が字を書くことから装丁まで一人でやって回覧するという形式はその後ずっと中学四年まで続きました。

 そのうち今中君が抜けてしまい、手塚君と私の二人だけになってしまいました。そうすると興味の対象は昆虫だけになるので、動物同好会というのもおかしいということで、六稜昆虫研究会と会の名前を改めました。「六稜」というのは北野の校章が六稜星ですし、校歌の中にも「六稜の星」と謳われていますし、同窓会も六稜同窓会という名前ですし、同窓会館も六稜会館。いわば、北野の代名詞ですね。六稜昆虫研究会という会を作り『昆蟲の世界』という研究誌を、手塚君の手書きで一冊作って回覧する形に移行しました。

手塚治虫と昆虫■林久男18


 最初のうちは原稿もよく集まりました。手塚君は「蟻の巣分れを觀る」という記事を書いていました。蟻が卵を運んでいるところを観察し、連続写真のような絵を描いていました。これは切り取って重ねればパラパラ漫画になるわけですね。蟻の行動を観察し正確に描いています。足がもつれないようにきちんと六本描いてあります。このような研究を発表したり、手塚君の昆虫趣味と絵の才能を生かし、シルエットだけで虫の名前をあてさせたり、昆虫の間違い探しといったクイズを書いたりしました。

 しかし、次第にネタが尽きてきまして、手塚君は妹の美奈子さんを研究材料に取り上げたんですね。美奈子さんが夜中にぐっすり眠っている枕元に侵入しまして、夜中に急に顔にライトをあてたらどんな反応をするか(笑)。そのままグーグー眠り続けるか、それとも眼をパッと開けるか、それとも、布団の上に起き上がって「お兄ちゃんのアホ」と言うか、それを何十回と実験を繰り返し観察した結果を載せたんですね。確かにこれは、研究材料は昆虫ではありませんが、人間の光に対する反応に関する立派な研究ですから、わずか15歳にして、このような研究テーマを思いつく才能は素晴らしいと思います。

 で、とうとうネタが尽き、いよいよ漫画の登場ですね。ご存じのヒゲオヤジが登場する「オヤジの勤労奉仕」という漫画が『昆蟲の世界』に載るようになりまして、そうなりますと、昆虫に関心もない連中からも漫画読みたさにクラスの引っ張りだことなりました。というわけで『昆蟲の世界』の出版をずっと続けたのですが、昭和19年6月で休刊することになりました。このように申し上げると、私ども二人は呑気に虫と戯れていたように思われるかもしれませんが、二人の中学生活の四年間はまるきり戦争とともにあったわけです。

 私どもが入学した昭和16年の12月8日に、太平洋戦争が勃発いたしました。当時は大東亜戦争と言っておりましたが、最初は日本が勝っておりましたし、当時の長坂五郎校長も自由主義の教育方針を貫いてくれましたので、なんてことはなかったのですが、戦局が激しくなるにつれ、軍部から「長坂校長のやり方は手ぬるい」というクレームがつき、更迭させられてしまいました。で、代わりに田村清三郎校長がやってまいりまして、徹底的な軍国主義を行ったわけです。途端に軍事教練や体育の教師が威張りだしまして、しょっちゅうビンタが飛び交うようになったわけです。その様子が『紙の砦』に描かれています。これが軍事教練の一コマですね。竹槍で藁人形を突いています。ちょっと手を抜きますと罰を食らうわけです。校庭を十回まわらされるというシゴキが待っていました。さらに勤労奉仕にも駆り出されるようになりまして、最初のうちは日帰りで、十三の駅前で建物疎開といって家の取り壊しを手伝ったり、男手が足りないので、服部の農家で田圃の草抜きの手伝いなど、日帰りの仕事が多かったのですが、次第に期間が長くなりました。三年生の夏休みは八尾の飛行場に何日間か泊まり込んで、掩体壕といって飛行機の防空壕を作るのに駆り出されたりしました。そして、中学四年生からは勤労動員が始まり、全然学校に行かずに工場に出勤して自宅に帰るという生活になりました。北野中学の場合はクラスによって動員先が違いましたので、手塚君は中津にありました大阪石綿というスレート工場に行くことになりました。私は、最初は、塚本の三星鉄工所に、次に三国の石産精工に行くことになり、離れ離れになってしまいました。電話もない時代にどうやって連絡を取り合ったのか記憶にないんですが、それでも連絡をとりあい、雑誌の編集の打ち合わせをしたり、箕面に昆虫採集に行ったりしました。

 そして、とうとう昭和20年に入ってからは空襲がやってきました。二人の動員先の工場も真っ昼間に敵の攻撃を受けたわけですが、その様子は『紙の砦』にリアルに描かれています。これは、爆弾が落ちたところ。これは、逃げてきた川に出て行った時に焼死体を見るシーンですね。このような悲惨な状況に遭遇しました。

 ということで、二人の四年間はまさに戦争とともにあったわけですが、その戦争のさなかでも、二人一緒に採集に行ったり活動をしました。これは最後、北野中学を卒業する時に写真館で撮った写真です。旧制中学は五年制だったのですが、昭和20年だけは早く卒業させて早く兵隊にということで、修業年齢が早められまして、昭和20年だけは、四年生と五年生が一斉に卒業させられたわけです。その後、二人で写真館に行き、お互いに交換した中学四年生の時の写真です。

林久男が手塚治虫と交換した写真

 そして卒業後は、浩くんの話にありましたとおり、昆虫採集をぴたっとやめてしまったので、昆虫との付き合いはそれっきりになってしまいましたが、北野中学での四年間の経験や、彼の昆虫に関する知識、昆虫と接した想い出は後の漫画の中に生き生きと表れているわけです。昆虫を擬人化したキャラクターも出てきますし、彼の作品によく出てくるメタモルフォーゼ、昆虫の変態のことですね。卵から幼虫になって、蛹になって蝶になる。このメタモルフォーゼが彼の作品の重要なテーマになっているわけです。というわけで小中学生の頃の昆虫に関する知識や経験は、やはり彼の作品の中に生かされているのではないかと思います。さらに、昆虫の方は浩くんが昆虫採集を続けており、今でも二人で一緒に採集に行っております。ということで、手塚ファンでいらっしゃる皆さまがたに、彼の作品の原点を少しでも知っていただき、ご参考になれば幸せであると、お話しした次第です。どうも、ご清聴ありがとうございました。
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手塚治虫と昆虫(1)手塚浩さん講演

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手塚治虫と昆虫

手塚浩さん(手塚治虫の実弟、大阪昆虫同好会会員・緑蝶会会員・日本蝶類学会会員)
林久男さん(手塚治虫の北野中学時代の同級生、産業能率大学講師・日本昆虫協会会員・日本鱗翅学会会員)

日時:2003年7月27日
会場:豊中市立福祉会館
主催:岡町・桜塚商業団体連合会
   おかまち・まちづくり協議会
協賛:手塚プロダクション
後援:豊中市教育委員会

【スタッフ】
木村 勝(総責任者)
田浦紀子(プランニング・広報)
田浦誠治(司会進行)
服部亜紀子・橋本修一(ポスター制作)



手塚治虫と昆虫 聴衆1 手塚治虫と昆虫 聴衆2

司会 それでは、ただいまより講演会「手塚治虫と昆虫」をはじめさせていただきます。開会にあたりまして、おかまち・まちづくり協議会の寺本透様よりご挨拶いただきます。

手塚治虫と昆虫■田浦誠治

寺本 皆さんこんにちは。おかまち・まちづくり協議会の事務局をしております寺本といいます。本日は講演会「手塚治虫と昆虫」に多数お集まりくださいましてありがとうございます。豊中が手塚治虫さんの生まれたということで、私たちもまちづくりは地域の特徴や財産をPRしていくことも事業のひとつと考えております。手塚治虫さんも大切な宝と考えていますので、こういった会でPRしていきたいと思います。今後とも宜しくお願いいたします。

手塚治虫と昆虫■寺本透

司会 日本マンガ学会会員・木村勝よりご挨拶申し上げます。

木村 本日は多数ご来場いただきましてありがとうございます。豊中が手塚先生の生誕地ということで何か活動をしていきたいということで、おかまち・まちづくり協議会からもご賛同いただきました。私の息子が手塚先生の作品を、闘病中にたくさん読んでおりました。平成4年に亡くなったのですが、部屋に置いていてはいけないということで、平成9年から手塚治虫先生の資料を展示しております。まちづくり協議会の賛同も得まして、4月5日に「アトム生誕記念講演会」を盛大に行うことができました。今回は「手塚治虫と昆虫」というテーマで手塚浩様、林久男様をお招きして講演会を開催できることを大変嬉しく思います。今後も夢に向かってやっていけたらと考えております。ありがとうございます。

手塚治虫と昆虫■木村勝

司会 企画・プランニングを担当しました田浦紀子よりご挨拶申し上げます。

田浦 手塚治虫ファンクラブ会員の田浦紀子と申します。本日はたくさんお集まりいただきありがとうございます。前回は、4月5日に大森俊祐先生、宇都美奈子さん、手塚浩さんにお越しいただきました。私は手塚治虫ゆかりの地を集成した『虫マップ』という研究誌を発行しております。豊中は手塚治虫生誕の地ということで、このような大きなイベントが出来、たくさんの方に集まっていただき嬉しく思います。本日は宜しくお願いいたします。

手塚治虫と昆虫■田浦紀子

司会 それでは時間もまいりましたので、早速、講演を始めさせていただきます。最初に手塚浩先生から講演を頂戴します。

手塚治虫と昆虫■手塚浩3

 壇上から失礼します。手塚治虫の弟の手塚浩でございます。まず、本会の開催にあたりまして、ご理解をいただき、また多大なご協力をいただきました豊中市、および地元の方々、それから何よりも、お休みの日にわざわざお越しくださいました、多くの手塚ファンの皆さまにお礼申し上げます。どうもありがとうございます。

 手塚治虫は少年時代のペンネーム、当時は「雅号」と言っていましたが、ペンネームを「治虫(オサムシ)」と称していましたので、この場では「治虫」または「治虫兄貴」と呼ぶことをお許しいただきたいと思います。治虫は、申し上げるまでもなくご当地、豊中の出身でございます。誕生からおよそ5年ほど経ってから、宝塚に転居したといわれておりますが、当時は宝塚という地名はなかったんですね。私ども家族が住んでいた頃の土地は、当時の行政区画上の地名から申し上げますと「兵庫県川辺郡小浜村川面字鍋野29番地」と申しましてほんの片田舎でございました。宝塚という地名になりましたのは、戦後でございまして、戦後ほどなくしてはじめて宝塚町になりました。昭和29年に、人口約4万人の宝塚市になったと書かれています。

 手塚治虫少年が住んでいた宝塚は、駅の北側は全くの田舎でございまして、当時の住まいの南側は、狭い道路を挟んで一面田圃がひろがる田園地帯。家の北側は小高い丘陵になっており、ものの5、6分歩けば、林あり、小川あり、森や池もあって、非常に豊かな自然が広がっておりまして、様々な昆虫や植物との接触が、容易にできました。のちに小学校時代に治虫が石原実さんというクラスメイトから昆虫採集の手ほどきを受け、ただちにそれを理解して、それにのめりこんでいったのは、そういった恵まれた環境に育ち、慣れ親しんできたことが大きく影響していることは間違いのないことだと思います。最近では、自然保護、環境保全、動植物の保護が大きく取り沙汰され、子供達でも虫取りが出来ない時代になっているのではないかと思います。考え方によっては非常に寂しいことではないかと思いますが、私たちが学生時代であった1930年代は、むしろ昆虫採集は奨励されておりまして、同じクラスの中でも、だいたい5〜6人くらいの昆虫博士がいまして、お互いに採集した標本を競い合って楽しんだものです。その頃のことを思うと今昔の感ひとしおというところでございます。いずれにしても昆虫を介して、その母体である自然と、いかに触れ合っていくべきか、という遠大なテーマに取り組むきっかけを私に与えてくれたのは、ほかならぬ手塚治虫でございます。ひらたく言いますと昆虫採集や自然観察の楽しさを私に教えてくれたのは手塚治虫でございます。その甲斐がありまして、私はいまだに山野を走り回り、昆虫たちとの深い付き合いを楽しむ、自分ながらの充実した生活をしております。

 手塚治虫との少年時代の想い出につきましては、4月5日のイベントの際に、大森俊祐先生や妹の美奈子と、かいつまんでお話できたと思います。今回はテーマが「手塚治虫と昆虫」ですので、多少なりとも治虫と昆虫にかかわったお話をしなければならないと、二、三、話題を用意してきたのですが、実は、治虫と昆虫に関する思い出は山ほどあります。全部喋っていると午前様になってしまいますので、ほんの二、三例をお話しして、あとはご質問があればお答えするスタイルでまいりたいと思います。

 ちなみに、「宝塚」という地名は当時無かったと申し上げましたが、一説によりますと、明治時代に開業しました阪鶴鉄道という私鉄がございまして、その鉄道会社が考えて付けた駅の名前が宝塚であったと、ある本に書いてありました。なぜ宝塚かと言いますと、あのあたりには小さな古墳が200ほどもあったらしいんですね。駅名をつける時、「塚」の上に縁起の良い言葉を付けようと思案した結果、「寶」の文字を選び「寶塚」となったということでございます。

昆虫館① - 縮小・キャプション入り

 治虫が少年時代よく通いました宝塚の遊園地の中にあった宝塚昆虫館。これは当時の史料を見ますと、宝塚新温泉という言葉で書かれていますが、新温泉の入場料が大人30銭、小人が15銭。アンパンが5銭だったと思いますので、今の通貨に換算しますと大人の入場料が600円、小人が300円ということになります。これを支払って治虫はよく通っておりました。その昆虫館に「宝塚昆虫館報」という月刊誌がございまして、ちょうど太平洋戦争が勃発した昭和16年に第1号が創刊されました。内容的には当時の一流の昆虫学者などが健筆を奮って執筆し、非常にレベルの高い内容でした。今の視点から見ましても、びっくりするような高度な学術的な論文が掲載されておりました。終戦の一年半前の昭和19年2月の第40号でしばらく休刊になりましたが、治虫は1号から40号まで全部集めまして1冊の本にまとめる気になったわけです。自分で独自の目次を付けて、蝶の口絵を二枚描き、一冊の本にまとめました。手塚治虫が自分で装丁した本だということで、それなりの価値があるのではないかと思います。蝶々の絵があるのですが、うちの兄貴が描いたのを皆さんにご覧いただきたいと思います。

手塚治虫と昆虫■手塚浩4

これはもちろん手塚治虫が自分で描いたもので、メスアカムラサキという蝶です。なぜ治虫がこれを描いたかというと、オスとメスで羽の色が全然違うんですね。この絵を、自分で装丁した「宝塚昆虫館報」の本の口絵にしたということです。

宝塚昆虫館報■メスアカムラサキ - 縮小・キャプション入り

もうひとつありますね。上がコノハチョウ、下がシロタテハです。これは今では珍しくないのですが、当時は非常に珍しい蝶で、この二つを口絵にし、全部で612ページとかなり分厚い本になっており、今も、私の手元に残っております。

宝塚昆虫館報■コノハチョウ、シロタテハ - 縮小・キャプション入り

宝塚昆虫館報■目次3 - 縮小・キャプション入り

手塚治虫と昆虫■手塚浩5

この文字は手塚治虫の自筆でございます。中学三年頃でしょうか。

宝塚昆虫館報■目次1 - 縮小・キャプション入り

宝塚昆虫館報■目次2 - 縮小・キャプション入り

宝塚昆虫館報■文子さんの字 - 縮小・キャプション入り


ちなみに、こちらの文字は治虫の母が書いた字を治虫がなぞって文字に仕上げたものです。ですからオリジナルは母親の文字です。

 治虫はいろいろな昆虫を集め、標本にして10箱くらいありましたが、戦後、なぜか急に昆虫離れしました。昆虫採集にも急に行かなくなったし、昆虫の絵も描かなくなった。せっかく集めた標本も、管理責任をほったらかしで、次々に虫に食い荒らされて、見るも無残な姿になりました。私も見るに見かねて治虫に言ったのですが、ほとんど関心がないようで「浩、お前に標本をやるから好きにしてくれ」ということになりましたので、その中から比較的被害が少ない蝶の標本を取り出し、私が管理することになったのですが、そのうちの一種が、オオウラギンヒョウモンという、分布上非常に珍しい蝶であることがわかりまして、10年ほど前に、蝶専門の出版社の社長の依頼もあり、治虫採集の昆虫標本の写真を添えて雑誌に発表したことがございます。

手塚治虫と昆虫■手塚浩6

 これは、日本全国で標本として現存する宝塚で採れた蝶は、この一頭とプラス一頭。この二頭のみで、極めて貴重な標本です。もう一頭は私が採ったメスでございます。治虫が採集したのがオス。宝塚には一切いないのです。いないのを私も採って兄貴も偶然採ったということで、おそらく何十万という値打ちがつくんじゃないかと思います。特にここに「手塚治虫採集」という自筆の文字がはっきりものを言うわけです。世界で二つしかない標本のひとつということで大変な値打ちがあるといわれております。手塚治虫の採集でなくても、おそらく標本商の間では引っ張りだこになるのではないかという価値があります。

オオウラギンヒョウモン(雄雌) - 縮小・キャプション入り オオウラギンヒョウモン手塚治虫採集ラベル - 縮小・キャプション入り

 戦後、手塚治虫が突然昆虫離れしてしまったわけですが、たまたま7、8年した頃、偶然宝塚の治虫の部屋に、オオムラサキが飛び込んできたことがあります。これもおそらく、宝塚における手塚治虫が直接タッチした、最後の生きた蝶ではないかと思います。たまたま宝塚の自宅におりました治虫が、よくも偶然、部屋にはいってきたオオムラサキを見つけたもんだと思いますが、「浩、オオムラサキが入ってきたぞ!」という兄貴の声を聴いて、近くにいた私が、すぐさま状況を察知して治虫の部屋に飛び込んだのです。窓際でバタバタしている蝶を二人ですったもんだして、やっと採りまして、私が記念に標本といたしました。そのオオムラサキは、まだ私の手元に現存しています。後から解ったのですが、オオムラサキの標本の中で、ひとまわりサイズの大きな大変立派なものでございました。なおかつ、もっと後になって解ったことですが、宝塚の駅から北側の御殿山地区で採られた、最初で最後のたった一匹のオオムラサキであったという記録的なものとなりました。偶然結果的にそうなったのですが、何か兄貴にそういった惹きつけるものがあったのでしょうか。その治虫が、戦後、急に昆虫離れしました。あれほど昆虫に対して愛情を持ち、鋭い観察眼をもっていた兄がどうして急に離れたのか。それも徐々に離れていったのでなく、ある日突然離れた感があります。なにぶん、問題意識とか発想力、ものの解釈が普通のレベルの人と違う治虫のことですので、本人にどういう気持ちの動きがあって急に昆虫離れしたのか、いまだに私は理解できません。ご存じのように、人が自分のあう趣味に没頭してしまうと、よほどの環境の変化、それに伴う心境の変化がなければ、自分の趣味からはなかなか抜け出せるものではありません。それが突然といっていいくらい、虫から離れていったわけです。昭和20年か21年じゃないかと思います。当時医学の勉強が関係していたとは思いますが、自分の趣味のすべてを投げ出すほど治虫兄貴が多忙であったとは思えません。いったいどういう心境の変化があったのか。これをいろいろ考えてみたのですが、兄弟として思うのは、治虫は非常にものを思い詰めるタイプでもあったわけです。ややもすると、思い入れが飛躍してそこから脱線してしまう可能性があることを、本人が十分承知して、そうなることを恐れたのではないか、と私はそう思っております。表現を変えますと、現実と空想の狭間において自分の独創的な判断を正当化して、そこからの脱出あるいは逃避を図った。しかし、昆虫の世界は自分の流儀でもって脚色することは非常に楽しく愉快であるけれど、同時に絶対に許されるべき行為ではないということを、最後に治虫は悟ったのではないか。いや、そうあって欲しいと私は願っております。ちょっと抽象的で申し訳ないのですが、ご質問があればある程度はお答えできると思います。

 時折私、兄貴の声が聞こえるんです。
「俺、ちょっとわけがあって昆虫との付き合いが中途半端に終わってしまったけれど、実はまだまだやりたいことがたくさんあったんだ。だから浩、昆虫との付き合いをずっと続けてほしい。それによって、俺が見過ごしてきた厳しい現実を、厳正な視点でもって見極めて欲しい。」
 こう語っているような気がします。皆さまのご期待にそえるような話かわかりませんが、どうもありがとうございました。
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親友が語る手塚治虫の少年時代(17)家庭における手塚治虫(6)

大森 今日の資料の中に「昭和10年当時の記憶による手塚邸平面図」というのがあるのですが、私の記憶によるものでございまして、美奈子さんに見せますと、やはり、あちこち違うという箇所がございました。ですので、あくまで私の頼りない記憶によるもので、間違いの部分があるとご理解の上、ご覧ください。

美奈子 ほとんど正確ですよ。

司会 この間取りを見るだけでも大きいお宅だったことが解りますね。

大森さん手塚邸間取り図説明

大森 上に二間の二階があったとのことですが、私は二階にはあまり上がらせていただかなくて記憶にないんです。二間の二階が南北にこうあったということですね。それから台所で下がっていてこの部分がここに来ていたと。ここにお風呂場、洗面所があったと。これが上につくわけです。ここに納屋がここにあり、女中部屋があったということです。それから廊下がこのへんからこちらに続いておりまして、この線があれくらい下に下がっていたということでございます。便所がもっと上の突きあがりにあったらしいですキンモクセイは確かにあったということで、これが滑り台ということです。現場に行って調べたので方位は間違いありません。それから、よく子供の時、誕生日に招待され、車座になってちらし寿司と茶碗蒸しをいただいたのですが、ここに出窓があったと。ここに押入れがあったと。それからオンドルがあったんですね。ここに本棚があり、電気蓄音機がこっちにあったというご指摘を受けました。ここに応接間があり、四つ椅子が並んでいたということでございます。ちょくちょくそういう間違いをしておりますので、あくまで参考ということでお願いします。

 治虫がトイレに入ってピーチクパーチク言っていたのはこのトイレですね。で、私たちはここで聞いていたんです。

 火星人の実演があったのはこの部屋ですね。

大森 ここに兄弟の勉強机がありまして、のちほど美奈子さんの勉強机もここに追加されましたね。これが漫画の本があった二段の本棚です。で、これがもっと下がっておったということですね。もっと上にあったということです。ですので、部屋が広すぎるというご指摘を受けました。

 この壁なんですが、治虫兄貴が描いた落書きと壁を削り取っていろんな模様を作っていました。それをやっていたのは90%治虫です。

大森 ここに押入れがあったらしいです。

 この押入れの中に「なんでも鑑定団」の北原さんが見たらよだれが出そうな玩具がたくさんありました。あったら凄いんですが何も残っていません。

大森 プラネタリウムをやったのはこの押入れなんですよね。でこの廊下にレールをひいて模型の電気機関車を走らせていました。遊びに行きますと、格子戸の引き違い戸でございまして、ここに座って漫画の本を読ませてもらうわけです。そしたらお母さんが台所から紅茶を運んでくださるのが習慣になっておりました。

司会 ありがとうございます。非常にリアリティあるお話を頂戴致しました。

田浦 最後に美奈子さんがパフォーマンスされるそうなのでご覧ください。

――美奈子さんがベレー帽をかぶってメガネを変える

美奈子 手塚治虫でございます。誰に会ってもそっくりと言われるものでちょっと遊んでみました。

美奈子さん手塚治虫の真似
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親友が語る手塚治虫の少年時代(16)家庭における手塚治虫(5)

 兄貴のとてつもない発想というか、さきほど綾子さんのお話で、火星人を作って紐で動かしたというお話を聞いてるうちに思い出したんですけどね、「皆さん、火星人の声を聴いたことがありますか?」って兄貴が言うんですよね。もちろん聴いたことあるわけないんですけども。「今からお聞かせします」と。その火星人の声を、私、やらされたんですよね。ちゃんと指導があったんです。火星人の模型を動かしている部屋に、水道と陶器製の洗面台があったんです。その洗面台が普段使ってないから水を溜めこんで一挙に流しますと、ガーッという音がするんです。「浩、お前黙ってていいから、水をいっぱい入れとけ」と。で、「僕が『火星人の声をみなさんにお聞かせします』と言ったときに水を流せ」と言うわけです。「いっぺんに流したらアカン。少しずつ流せ。」ということで、私は言われたとおりしましてね。やっぱりガーッという音がするんですね。「これが火星人の声です。皆さんわかりましたか」と。それを2、3度繰り返さされて、それは全部私がやったんで、お話聞いて思い出しましたけれども。そういうとこはすごい発想だと思いますね。私が下手な声でギャーギャーいうよりも、水道の水の流れる音が兄貴の火星人のイメージだったんでしょうね。大森先生、覚えてらっしゃいませんか?

大森 ちょっとそれは覚えてないですねえ。

美奈子 どなたがいらっしゃったの?

 んーとねえ、荻野さんが来てらして、アンタ(美奈子)もいたし…

美奈子 宝塚のグループの中?それとも…

 7、8人くらいいたんじゃあ…

美奈子 そしたらやっぱり大森さん達も入ってらしたんじゃないの?

 何をしゃべってもいいんだったらね、とっておきの治虫の思い出。これ、いまだに忘れませんけども、私の部屋の隣がトイレだったんですよね。汚い話で恐縮なんですけども、治虫がトイレに入りますと、何秒かしますと中で何か一生懸命に喋っているんですよね。何を喋っているかわかんないんだけども、時々「ドカーン」「ヒュー」とかいう擬音が入るんです。あれはトイレに入る度に言うんです。トイレに入ってそれだけ喋ったり声を出したりするわけですから大きいほうのトイレですよね。大のトイレの時に、必ずとい
うほどやっていましたね。だから自分が漫画の主人公になったつもりで、何か一生懸命セリフ喋っていたのか、ディズニーの漫画なんかのシーンを思い出して、それを 自分の気持ちの中で再現してつい声に出してしまうのか。もちろん学校行っている時ですから小学生のときですよ。中学に入ってそんなことできないでしょう(笑)。

美奈子 やりかねない(笑)。

 小学校5、6年の頃だったと思います。それだけです。これは今まで出た治虫の伝記、本の中に全然書かれてなかったでしょう。書けませんからね(笑)。これは本当の話。嘘じゃありません。

美奈子 付け加えますと、終戦直後の昭和20(1945)年10月、11月に宝塚歌劇の公演を観に行きました。大歌劇場は接収されていましたので、北野劇場という映画館で再開したことあるんですよね。そこでね、私達は「ピノキオ」と言いますが、その頃は「ピノチオ」と言ってね、それに兄がハマりこみました。もう、明けても暮れても「ピノチオ」で。何度か場末で上演したのをわざわざ追っかけて、私も一緒に観に行っていたんですけども。兄は音楽、歌、セリフを全部覚えてそれを私どもの前で全部披露してくれました。コタツに3人であたりながら、春日野八千代さん演ずるピノチオの名台詞で「ぼくあなたを知らないなあ」というのがすごく流行ったんですが、そこから始まりましてね、女神様が淡島千景さんで、声色をそっくり真似て、音楽を口三味線でやって全編やったんです。それほどハマっておりました。だから、そういったことが日常茶飯事に行われておりました。

大森 はい、今も手塚君が記憶力が良かったという話が美奈子さんの方からありましたが、小学校の時に平賀翠さんという女の子がおりまして、小学校二年生の時に手塚君がクレヨンで描いた絵を何枚か見せて「この中で好きなのあったらあげるよ」と言って、箕面の滝にモミジを描いた絵が気に入ってそれをもらったらしいんです。ところが卒業する真際になって、その平賀さんに「前にあげた箕面の滝の絵を返して」と言われたらしいんですよ。何年も前の絵をあげたということだけなんですね。それを覚えていて、その記憶力にびっくりしたというお話があるんですが、その方が今日見えていますから紹介いたしましょう。

大森 同級生の平賀翠さんです。その本の中にそのエピソードが書いてあるわけです。で、悪いと思ったのか、手塚君がその絵の代わりにお父さんの写真の作品10枚くらいくれたと。そんなことも書いてます。これもエピソードなんですけどね、小学校の茶話会で、手塚君が中島豊君とコンビを組んでその頃有名だったエンタツアチャコの早慶戦をやったわけですよ。茶話会で披露したわけです。ところが中島君がすっかり上がってしまいましてね、セリフは忘れるわトチるわで進行がうまくいかないんです。手塚君が躍起になって「違う違うこうや」と彼のセリフまで教えてあげるという。演説は上手い、記憶力がある、というので我々びっくりした経験があるんですが。それくらい彼の記憶力は抜群なんです。

司会 ありがとうございます。手塚先生の記憶力が人間離れしていたというのは、後々漫画家としてデビューして実績を積まれて以降も、アシスタントに外国から電話で原稿の校正の指示を入れると。その時に手塚先生の手元には原稿が無いわけです。で、アシスタントに電話で「そこのページの左から何コマ目のセリフはこうだから、それをこう直してくれ」と。今のようにFAXがない時代なんで、それをやっていたという信じられないエピソードもありました。それは大森先生のご紹介にありましたように、小さい頃からそういう特殊能力があったんじゃないかと思います。

司会 木村さん、貴重な史料があるようでご紹介いただけますか?

木村 手塚先生の少年期の貴重な史料です。美奈子さん説明をお願いします。

美奈子 その頃、父が撮影機を持っており、何かにつけて子供たちを撮影してくれました。「子供の四季」と名付けひとつの映画にしていたんですが、日曜日の夜に披露してくれるんですが、そのことを私が一年生の頃の絵日記に書いたものがあります。
親友が語る2部■美奈子さんの日記1 - コピー

木村 描かれたのは美奈子さんですか?

美奈子さんの日記2
美奈子 これは私です。小学校の運動会を撮影してくれた様子を絵日記に書きました。これも父が8ミリの映写機で映したものです。

木村 美奈子さんも一年生なのに絵が上手ですね。

美奈子 漫画ばかり見ていたので、漫画的な絵しか描けなかったんです。

美奈子さんの日記3朝日会館
田浦 これはベティ・ブープですか?

美奈子 はい、ベティです。ポパイもベティもよく描きました。これは、朝日会館で年に二回くらい「漫画祭り」があり、漫画映画ばかり上映する企画があり、その日の様子を描きました。館内の様子は私が描き、映画の画面は兄が描きました。ですから合作ですね。

田浦 フクちゃんもよく描かれたと聞きましたが。

美奈子 フクちゃんは漫画のほうですね。手すさびに描くのはベティちゃんで、漫画の中にはあまり登場させませんでした。

美奈子 兄が、自身の漫画で映画的手法を使ったことで話題になったのですが、そうかと思うと「そんなのは後付けだ」とおっしゃる方もたまにいるんですね。ですが、これは兄が映画的手法を取った漫画を描いていたという立派な証拠だと申し上げたくて、今日お持ちしました。これは北野中学時代の作品ですが、こういった導入の仕方で、近寄ってきてアップからロングで見ている子供がいる。明らかに映画的手法だと思うんですけども。この漫画に限らずこういった導入の仕方はよくしておりました。

木村 題名は何ですか?

美奈子 これは未完です。この前に『勝利の日まで』の第一作があり、こんな分厚い本でございました。でもお友達にあげてしまって戦災で焼けてしまい紛失してしました。第一作の『勝利の日まで』はまだ戦争が勝っている時代なので、日本が勝っている前提で終わっています。その後ぐるっと戦局が変わりましたので、続きには空襲などが描かれています。

木村 これは何歳くらいのものですか?

美奈子 北野中学時代です。戦局が危なくなってきた頃ですから、この後に続く『勝利の日まで』も空襲など戦争の状況を書いて未完に終わっています。

手塚治虫昔の漫画1ママー2
田浦 これはママーですね。後年『七色いんこ』などに登場するキャラクターで、小さい頃からママーの漫画を描かれたと伺っています。

 ママーは、私が普段開けない引き出しを開けたら「ママー」という名前の咳どめ薬が出てきたんです。そこにママーと書いてあって、その下に梟か何かの鳥の図柄が描いてあり、そこから生じたものです。眼鼻を付けたのはもちろん治虫兄貴ですが、最初、こういうのはどうだという発案をしたのは私です。何か非常に気に入って、しまいにそこから手足が生えてきたんですね。だから、兄貴自身が描きながら「ママーの身体の中身はどうなっているのか」と本人が気にしていたんじゃないかと思います。「潰したら簡単にグシャッと簡単につぶれてしまうゾ」と治虫が言っていたのを覚えています。

木村 手足が出ていないときは謎だったんですね。

 そうなんです。まさか手足が出てくるとは私も美奈子も考えていなかったのですが、そういうところは治虫兄貴の発想だと思います。なぜ最後まで目がひとつだったのか疑問なんですが、あれで結構生き物だということを象徴的に表現していると思うんですけどね。一つ目というのが、怪物じゃなしにユーモラスな性格を持つのは兄貴の手法じゃないかと思います。

 原画を発見したのは小学校低学年だったと思います。美奈子のヒョウタンツギが出てくるだいぶ前です。

田浦 ママーはヒョウタンツギより前だったんですね。ブクツギキュというキャラクターも美奈子さんが描かれたと伺っていますが。

美奈子 ブクツギキュはヒョウタンツギと一緒に生まれました。

木村 美奈子さん、イラストを描いていただけますか?

司会 ヒョウタンツギは、手塚治虫先生の最晩年に至るまで作品の中で頻繁に登場した怪生物で、これが宇都美奈子さんが生みの親とされています。ブクツギキュというのはヒョウタンツギの親戚のようなもので、ヒョウタンツギがキリンのように首を伸ばしている、ファンも咄嗟に思い出せないくらいマイナーなキャラクターですけど、それも美奈子さんが発案されたということです。

田浦 他にもこの手の手塚ギャグキャラクターで、ママー、蜘蛛のような形のロロールル、「オムカエデゴンス」という台詞のスパイダーなどがあります。

司会 オムカエデゴンスは、正式名称はスパイダーと言うのですが、鼻が出ていてとても蜘蛛には見えないのですが、スパイダーと言います。スパイダーのモデルはどういうところからきたのでしょうか?

 私がその原画を作った記憶があります。「オムカエデゴンス」という台詞は治虫の創作ですが、わけのわからない人間というか生き物の原画は私が描いたのを、治虫が加筆しました。

美奈子 スパイダーは背広を着たキャラクターです。もとは悪役で蜘蛛男って名前だったんです。ああいう風に変わったのは、ママー漫画に登場するようになって、ああいった成れの果てになってしまったんですが、本当は怖い存在だったんです。

――美奈子さんのイラスト完成

親友が語る2部■美奈子さん画・ヒョウタンツギ - コピー
親友が語る2部■美奈子さん画・ブクツギキュ - コピー


司会 今、まさに生みの親が描いたブクツギキュです。ブクツギキュとヒョウタンツギはどちらが先に生まれましたか?

美奈子 僅差でヒョウタンツギが先です。名前はいっぺんにつけました。

木村 細かく繋ぐところにポーンと出てきますね。

美奈子 兄は照れ隠しで使ったのだと思います。シリアスな場面をごまかそうとヒョウタンツギを登場させました。台詞はありません。

田浦 このヒョウタンツギはキノコの一種だという設定もありますが。

美奈子 小さいヒョウタンツギがズラッと並ぶのがあるんです。それを取ってスープに入れると美味しいという漫画を描いた時にキノコという設定が生まれました。

田浦 主人公の顔が突然ヒョウタンツギになることはよくあることなんですが、稀な例でヒョウタンツギが自我を持ったストーリーもあったんです。講談社手塚治虫全集には収録されていない、未収録の『ハトよ天まで』で、ヒョウタンツギが仙人という役で登場しました。あまりにも突飛な話なので全集版ではカットされたんですが。

司会 ママーの絵の続きがありますか。工場で作業をしている絵でママーがあったと思うのですが。先ほど浩さんからお話しがあったママーが咳止め薬の登録商標から手塚浩さんが発案されて手塚治虫さんが目と手をつけたのがママーです。これものちに『七色いんこ』など後年の作品に登場します。ですから、かなり強烈な印象をお持ちだったのではないかと思います。このように、幼い頃の手塚治虫さん、そしてご兄妹がご一緒に漫画を共作して、その中でヒョウタンツギなどいろんなキャラクターを生み出していった。それがのちの手塚作品に登場するようになった。ご兄妹仲良くいろいろ本を読んだり漫画を描いたりして育った中で、手塚治虫という偉大な漫画家が形成されていったと言えると思います。
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親友が語る手塚治虫の少年時代(15)家庭における手塚治虫(4)

木村 家族の写真を今日はお持ち頂いたんでしたかね?

――OHPで写真を映す

木村 これは手塚先生の宝塚のおうちのお隣に住んでおられた方に、ちょっと説明して頂きましょうか。

荻野 はい。私、荻野綾子と申します。

手塚家写真1(荻野綾子)
後列右から手塚浩、荻野綾子、手塚美奈子、手塚治虫。

手塚家写真3(荻野綾子)
右から荻野綾子、手塚浩、手塚美奈子、手塚治虫。

手塚家写真2(荻野綾子)
中列上から手塚浩、手塚治虫、手塚美奈子。左上が荻野綾子

※写真はいずれも父親の手塚粲(ゆたか)の撮影。左下にHOKUFU TEZUKA(粲の雅号「手塚北風」)の刻印が見られる

荻野 私横が美奈子さん。それはご 近所の方 でもう亡くなられた方。で、一番上が浩さん、右側。それで次が私。それから美奈子さん。その後ろが治さん。

木村 真中の後ろ?

荻野 はい。そしてアキコちゃんが女の子ですけども、その前が 弟です。 で、一番真中が、近所の子なんです。(左の写真)はい、それが不細工ですけども私です。その後ろが浩さん。その前が美奈子さん。その後ろが治 さん。そして 真中がアキコちゃん。その一番前が弟です。そちらが私たち姉弟と手塚さん兄弟五人が映っている。どっか近所の裏山かどっかで、ずっと上の方で したね。こち らさまのお宅の近くにおりましたので。それは弟です。一番上が浩さん。その下が手塚治虫さんと。前が美奈子さん。一番向こうの後ろが私。

荻野 手塚さんとは学校は違って、私は地元の宝塚小学校です。でも近くでいつも親しくさせて頂きました。美奈子さんと随分仲良く一緒に遊んで頂きました。私の家庭とは全然違う家庭で、あちらはお父様、お母様とおっしゃっていました。治虫さんのことを「お兄様」、浩さんのことを「ちい兄様」と呼んでいらっしゃいました。私は浩さんが私よりひとつ下なので、ちい兄さまとは言いにくいんで。治虫さんは一番大将で、頭がよくて面白くてやさしくてユーモアに富んでらっしゃって、いつもみんなで「お兄様」と呼んでいました。そして いつも遊んでいただいていました。そんな感じでございます。

木村 エピソードはどうですか?

荻野 エピソードですか?いつもお母様はお茶の間に座っていました。本当にモダンで、浩さん嘘ばっかり…。月に1回宝塚の歌劇見に行かれるときなどは、毛皮のショールをなさって、すごくハイカラで、綺麗な格好をして行っておられたのを覚えております。
 治虫さんは、いつも蝶々の絵などを即座にお描きになってました。部屋を真っ暗にして壁に張りつけて、蝶々とかトンボなどを取りっこしたことを覚えております。すごくお行儀がよくて、私の家にいらしても、男の子のお子さんですのに、ひざまずいて「おばさま、ありがとうございました」って挨拶して帰られるんです。それで私もよそに行ったらそうしなくちゃいけないと思って。「こんにちは、おばさま」、帰るときは「ありがとうございました」と。それは手塚さんのおかげなんです。おかげで行儀のいい子だなあと言わ
れましたよ。そんなことでございました。
 で、いつも、尊敬している良いお兄様でした。11月3日がお誕生日でしたね、たくさん学校のお仲間が来られて私たちも呼んでいただきました。治虫さんのことを「お兄様」なんて呼んでいたら、他の男の子から「あいつ、『お兄様』って言ってらあ」と、笑われたことも覚えています。

木村 プラネタリウムの思い出は…?

荻野 プラネタリウムは四ツ橋の電気科学館に見に行きました。天の川や、土星に輪があることやアンドロメダ星雲の話など、いろんなことを教えていただいたことを覚えています。それで、自宅でボール紙に穴を開けて星空を作っていました。お納戸の中に入って、後ろから懐中電灯で照らして。
それから大きな火星人を紐で操って動かしていました。離れで「火星の世界」っていうのをなさってましたね。

木村 火星人というのはどんな火星人?

荻野 なんかこんな、足がいっぱいあって…

木村 タコのような…

荻野 そうそう、そんなんでしたね。それを覚えております。

 H・G・ウェルズの火星人、あれをそのまま。

荻野 それはよく覚えております。もうしょっちゅう、遊ばして頂いた、貴重な思い出です。昭和16年、17年まで私は宝塚に居て、その後転宅しました。でも手塚治虫さんはずっと憧れでございました。あんな頭がよくて優しくてユーモアに富んだ方は、他にお会いしたことがありません。

田浦 ありがとうございます。さきほど荻野さんの話に出ましたプラネタリウムは、ドイツのツァイス社製のⅡ型プラネタリウムといいまして、当時四ツ橋の電気科学館にありました。電気科学館はもうだいぶ以前に取り壊されたんですが、プラネタリウムの機械は今、大阪市立科学館で展示保存されておりますので、また一度ご覧になられたらいいかと思います。

司会 プラネタリウムといいますと、手塚少年が手作りでこしらえたそうで、大森先生もご覧になったんじゃないかと思います。その思い出などございましたらお願いします。

大森 手塚君は探求好きな子どもでしたから、ドームの中に映し出される星座を自分の家でも是非やってみたいと、ベルベットの石鹸の箱に穴をあけて、中に裸電球をいれて、押し入れの天井にそれを映してプラネタリウムを再現しようとしたわけです。ところが中に入れた裸電球のフィラメントが、ぼやけて線のように映り、失敗したと言われています。でも、彼はその頃に宇宙への好奇心を身に付けました、原田三夫の『子供の天文学』という本を電気科学館の売店で買ってもらって、またそれを学校に持って来てみんなに見せてくれたわけです。それをみんなで回し読みしまして、一時私どものクラスの中で「天文ブーム」が起こったこともあります。もちろん彼がその中心人物なんですけども、輪のある土星や縞模様の木星やハレー彗星などを描いては持って来ました。皆に解説しながら絵を見せてくれて、それを見惚れて聞き惚れた思い出があります。そのころに身に付けた彼の宇宙への興味や知識が後に、彼のアニメの世界などに生かされているんじゃないかと思います。

原田三夫「子供の天文学」 中表紙

美奈子 プラネタリウム、私もたまに連れてってもらったんですけども、まだ小さかったんで、あんまり興味が無くて。ただ、音楽がとても素敵だったんです。エルガーの「威風堂々」が、いろんな説明があったあと、夜が明けてくるときに、それを鳴らすんですよね。それがとっても印象的だったのを、そっちの方が私は、星の話よりも印象的だったのを覚えております。
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親友が語る手塚治虫の少年時代(14)家庭における手塚治虫(3)

司会 美奈子さんいかがでしょうか?

美奈子 兄はよくオーバーだっていう話が出ますが、漫画が200冊はあったというのは、これはもうオーバー。

 いや、200冊くらいありましたよ。

美奈子 本当?200冊も? だって、ナカムラ漫画がせいぜい30冊くらい。講談社の本は絵本であって、漫画じゃない。漫画の本が200冊って…。

 いや、二階に行ったら昔の漫画の本がダーッとあった。

美奈子 あれは…あれ漫画なの?

 漫画だよ。だからね…

田浦 それぞれ真実だと思うんですけども。

 まあ、100冊にしましょう。

美奈子 100冊はありました。

田浦 ひとつよろしいですか?大森先生が以前私に話されたことなんですけども。手塚家に遊びに行ったら、お母様が紅茶を出されて、それが非常に珍しかったとおっしゃっていたんですけども。

美奈子 母の淹れた紅茶は絶品でございました。というよりも、その時代の紅茶がおいしかったのでは。確かに紅茶を入れますと、家中が紅茶の香りに包まれましてね。なんとも本当にいい香りなんですね。

 俺、覚えてネーゾ(笑)。

美奈子 あなた紅茶嫌いだったんじゃないの(笑)。いやこれは本当の話。大森さんがおっしゃることは本当。

 俺だけ…

美奈子 俺だけ飲んでないのね(笑)。これ証拠がございましてね。終戦後、父が何かの機会で米人と付き合いすることになって、あちらのご夫婦で家にお見えになったことがあるんです。で、母があの頃は本当になけなしの、あの頃ですからリプトンの残り物だと思うんですが、お砂糖も無かったもんですからサッカリンか何かでお味をつけ出しましたのね。そしたらその奥様が「とってもおいしい紅茶だ」って褒めてくださって。

 あれ、日東紅茶(笑)。

美奈子 なんの紅茶にしろ、母の淹れた紅茶はそういう証拠がございますから。あなたは忘れてる(笑)。

田浦 お母様の文子様は、大変モダンな方だと伺っておりますけども?

大森 はい、それは私どもが見ましてもね、本当に見とれるくらいの美しさだったですね。小学校の参観に見えましたときはですね、いつもパーマネントかけて前髪を下に垂らされるわけですね。ある女の子が書いているんですが、黒い羽織に蝶々の羽の模様のある羽織を着て来られてとても素敵だったというふうに覚えている女の子 がいるわけです。ですから本当に私どもが見ましても、ひときわ目を引くような、非常にモダンな美人のお母様でございました。

 男の目から見ますとですね…それも先ほど申しましたように、それぞれの人がですね、感じたまま受け入れればいいわけです。母親はモダンで美人であったと思われたら、それは結構です。私自身はですね、私はやんちゃ坊主だったもので、幼い頃、母の顔をまともに見ることができなかったんです。

美奈子 兄の言葉をちょっと補足いたしますと、母は確かに美人ではなかったんですが、私は、フィーリングで素敵な母だったと思います。やっぱり立ち居振舞いがモダンで、雰囲気で皆様に印象づけたんじゃないかと思います。
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親友が語る手塚治虫の少年時代(13)家庭における手塚治虫(2)

司会 それでは早速、家庭における手塚治虫ということで、実像に迫ってまいりたいと思います。皆様、手塚治虫の伝記、あるいは作家の方だとかがお書きになった本をお読みになった方、大勢いらっしゃると思います。けれども、さきほどの大森先生のお話にも垣間見られました描写力、あるいはお話を作っていく創作能力、ストーリーテリングの能力がすでに小学校低学年の段階から非常に発達していたということです。そういうお話、エピソードがございました。

で、それを何も無いところからそういうストーリーテリングの力であるとか描写力が生まれるわけはないということで、家庭の中でそういう土壌のようなものがあったのではないかと、我々は思うわけです。資料、ものの本によりますと、手塚家にはたくさん非常に多くの漫画の本があったと、そのようにいろんな資料で紹介されています。聞くところによりますと、大森先生も少年時代に手塚家に行って、その膨大な漫画の量に魅了されたというエピソードもお聞きしたことがございますが、そこらへん、具体的にどんな家庭だったのかをご紹介頂ければと思います。

大森 はい、私は一年生に入って、すぐに手塚君から「うちに遊びに来ないか」と誘われたわけでございます。それで喜んで出かけまして、第一印象が、「こんなお宅があるのか、あまりにも家庭の差がありすぎる」と、子ども心にカルチャーショックを感じました。とてもお庭が広い。全くのお屋敷なんです。最初にお邪魔したときに、子ども部屋に案内されまして、そこの子ども部屋の入って左側に二段の本棚があるわけですが、下に講談社の幼年童話全集という厚い本が並んでいるわけです。上の方にいろんな分厚い漫画の本があったわけです。

 お宅にお邪魔した最初の日に借りて帰った本が、ナカムラ・マンガ・ライブラリーの『天晴れカツちゃん』という漫画の本でした。これが、私が漫画と出会った最初でございました。後に手塚君はうちに漫画の本は200冊あったと言っているわけですけが、大変気前のいいところがありまして、漫画の本を買ってもらいますと、自分が読み終わるとすぐに学校へ持って来て、皆に見せてくれるわけです。ですから、当時の有名な漫画『のらくろ』ですね、上等兵、伍長、軍曹と階級が上がるたびに出版されますけども、『凸凹黒兵衛』、『蛸の八ちゃん』、島田啓三の『冒険ダン吉』や、中島菊夫の『日の丸旗之助』、牧野大誓、井元水明の『長靴の三銃士』等々、いろんな漫画の本を、全部手塚君から借りて読ませていただきました。ですから手塚君との出会いがなければ、そんな漫画の本は一切知らずに成長していたんじゃないかと思います。

 そういった恩恵に浴したということです。手塚君の家がいかに文化的だったかということはお分かりいただけましたでしょうか。泉谷迪くんの『手塚治虫少年の実像』でも、私が喋っているのですが、書斎に縦型のピアノがありました。それからその上にお父様のデスクがあり、その右に電気蓄音機があってと、それから廊下の一角には電話がありました。今でこそ電話は一般に普及していますが、昭和10年代に、電話のあるお宅というのはまず無かったですね。それから、お父さんがドイツ製のライカというカメラを持っておられた。これも名品で、そこらのサラリーマンが手に入るものではありません。それから、フランス製のパテベビーという手回し式の映写機、そして撮影機。お父様に映画を撮ってもらって手塚君に写して見せてもらったことがあります。

 昭和10年のはじめの家庭で、そんなものが揃っていた家庭は、まず無かったと思います。それほど手塚君のお宅がとても恵まれた家庭環境だったと私は思います。いかがでしょうか。

 ただいまの大森先生のご説明の通りなんですが、そのような環境の中で、我々兄妹が育ったわけですが、躾などが極めて厳格で、生活も今から考えると、極めてつつましかった方ではないかと思います。

 なぜそう言えるかといいますと、当時行っていた池田附属小学校は、とても伝統のある学校で、厳しい躾があったわけですね。で、遠足でお菓子などは、全然持って行ってはいけないわけです。ところがやっぱり、こそっと持ってくる人がいるわけで、私の方は、学校で決められた通り、何も持たずに手ぶらで弁当だけ持って行くと。で、母親に「こないだの遠足で誰々君がアメちゃん持ってきたよ」とか「お菓子を持って来てたよ」とか「今度僕に持たしてくれ」って言っても絶対くれなかったんです。

 で、今から思いますと、どうでしょうね、当時の親父の収入はもちろんわかるはずはないんですが、生活そのものは随分切り詰められていたと思うんです。その代わりといってはなんですけども、大森先生のお話にもありましたように、いわゆる文化系統の方、親父がとても読書が好きだったということもあって、本を子ども達の成長の糧にするという考えがあったんでしょうか。書物だけは十分に与えてくれたという記憶がございます。それが結果的に手塚治虫の情操教育に良かったんじゃないかと思います。言葉で端的に申しますと、食べ物では極めて質素であったのは事実でございます。ナンセンスかもしれませんが、当時の男性、一家の主というのは、極めて位置が高いところにあり、今そういう生活してますと、すぐ文句言われそうですが、親父は朝飯から我々と雲泥の差がありました。例えば親父は、朝から当時珍しかったバナナがあるわけです。それも記憶から言いますとバナナは一本じゃなく3分の1かせいぜい半分くらい。それも母親が随分気を使って、一本出した ら明日の分が無くなるから、半分か3分の1で、あとは翌日に残しておこうという配慮があったのかもしれませんが、親父の食卓と、我々子ども三人の食卓に並ぶものは、全然差がありました。ですから必ずしも、大森さんがお越しになって素晴らしい邸宅だと、確かに家は広かったですが、随分贅沢してるんじゃないかという気持ちを、もし持たれたのだとすれば、それは全然違ったのではないかと思います。むしろ私自身が、たまに他の友達の家に遊びに行った際、そこで受ける接待は、うちの母親がそこまでしてくれないような接待を何度も受けた経験があるということで「よそのうちではこんないいもの食べているのか」とうらやましく思ったこともございます。おそらく治虫兄貴も、同じような気持ちを持っていたことが、無かったとは申せません。そのへんは本人がいませんのでわかりませんけども、私が先程ちょっと申しましたように、嘘のような真実もあれば、まことしやかな空言もあるということで、そこは、そう感じられた方がそう感じられた通り自分の胸にしまっておけばいいわけで、決まった定義というのはないと思います。
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田浦紀子(たうら・のりこ)
1978年大阪市生まれ。京都精華大学卒業。在学時代に、弟の高坂史章と共に阪神間の手塚治虫ゆかりの地を記した研究誌『虫マップ』を発表。改訂を重ねながら様々な媒体で発信し続け現在に至る。
また、京阪電鉄のフリーマガジン『月刊島民』vol.72(2014年7月号)に中之島界隈の手塚治虫ゆかりの地を発表、その後の人気投票でも100号中10位を獲得するなど、単なるミーハーなファンに留まらない「手塚先生」に対する独自の視点が定評を得ている。
近年は大阪を中心に、手塚治虫ゆかりの地をめぐるイベントを主宰。また同級生たちの講演録をまとめた『親友が語る手塚治虫の少年時代』を2017年4月7日(鉄腕アトムの誕生日)に和泉書院より上梓。精力的な活動を展開している。

高坂史章(こうさか・ふみあき)
1980年大阪市生まれ。大阪大学卒業。姉・紀子と共に『虫マップ』を発表。鉄道・歴史・近代建築、ミリタリーと趣味は多岐にわたり、アニメの「聖地巡礼」もその一つ。『親友が語る手塚治虫の少年時代』では、特に手塚治虫の戦争体験に関わる箇所を監修。

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